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612621展覧会風景

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「風景がわたしをみている気がする」TEMPORARY SPACE 展覧会風景

テンポラリー個展
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わたしと風景が交叉する場―小林麻美「風景がわたしを見ている気がする」展
(テンポラリースペース 2008年5月9日−5月15日)

湖なのか川なのかわからないけれど、水辺の広がりのそばにいるような感覚をあまりに自然に受けいれてしまったので、その場に水辺が出現している不思議さに気づいたのはしばらく経ってからのことだった。                                         数年来、対象に注がれる過剰な視線を覗き見的に描いてきた小林麻美は、現在のシリーズでさらなる試みに挑んでいる。 今回の「風景がわたしをみている気がする」展では、巨大な絵巻物のように長い画布を吊るし、広々とした水辺の風景で展示室を囲んだ。130度ほどの視野として広がるメインの画面には、5つの異なったシーンが描かれている。白い金網のフェンスが前景全体に覆う左端の水辺の森から始まり、破れたビニール屋根の家、作家自身の祖父が船に乗る想像上のシーン、同じ祖父が木を運ぶ現実の出来事、水面に丸い穴を開けるダムの放水の周囲は消えゆき、右端の空白部分でロールに巻き取られて終わる。小林は、これら5つのシーンをほぼ同一の視点に立って描く作業を経て、作家自身の一つしかない視点に束ねて過剰な印象へと強め、「見る側を圧倒するほどの情報過多な視覚経験」をこの絵画のなかに再現しようとした。絵の前に立つと、鳩目にロープが張られた画面の広々とした印象と設置プランに模型が使われたことがあいまって、ギャラリー全体が小さな帆船として建造されたように感じられてくる。キャンバスがロールのままに長く使用される形式はまた、巨大な絵巻物のような時間性をもった作品にも見える。西洋近代的な帆布を支持体とした風景画と日本的な絵巻物とが一の形式にまとめ上げられている。とりわけ印象的なのは、絵巻物に描かれる「すやり霞」のように場面をつなぐ金網のフェンスの存在である。白いフェンスという構築物は、こちらの世界と向こうの世界を分かつ裂け目に他ならないが、その菱形の目は、こう側へと開かれた小さな窓の連なりとしても機能する。左画面に描かれた白い金網は、キャンバスの画面からわずかに距離をおいて立って、現実に手で触れられるものであるかのように描かれているが、右に視線をずらすと網目が大きくゆがみ、額縁としてシーンを繋ぎながら多様に変化する。ある網目では、白い枝の広がりが水面に反映する光景を切り取っている。汀線をはさんで相対した木々は、網目窓のなかに入れ子のように網目をつくっている。地上と水鏡の網目が溶けあっている様子は、窓を踏み越えて向こう側の世界と接続しようとする作家の知覚を象徴するようである。さらに、金網の内側に焦点を結んだシーンの端々に不思議な現象が見られる。作家の祖父が運んでいる木の描く斜線、家の屋根の描く斜面などが、金網の菱形の一部に同化しそうになっている。見ようとする意志は、対象との感覚的な隔たりを変質させ、遠くにあって眺められる風景と近くにあって触れられるフェンスは視覚の中でたやすく溶け合ってしまう。私たちがぼんやりした遠くの風景に焦点を絞って知覚しようとする瞬間、その風景が対象として手元に引き寄せられてくるような不思議な感覚が、網目があたかも敏感な感覚器のようにゆらぐ錯覚のうちに描きこまれているのである。
さて「風景がわたしを見ている気がする」というのが今回の展覧会名だったが、これはフェンスを裏返せばわたしたちが見ている「風景」が、こちら側のわたし(たち)を見つめ返すということを意識させる。組んだ両手のように映しあいながら絡み合う彼方と此方は、白い金網の境界面で交叉し、見るものと見られるものが入れ替わる可能性をほのめかす。触れる右手と触れられる
左手が互いに入れ替わるような絡み合いにわたしたち自身が巻き込まれていくことを背景にして、白い網目ごしに確かに感じられる彼岸の湿った感触は誘われるように心地よい。
塚崎美歩:1978年生。横浜を拠点に活動。専門は現代美術・美術批評史。

■2008.7.17 北海道新聞の「季評・美術」で5月の個展を取りあげて頂きました。

季評5月

2009.03.30 北海道新聞朝刊文化欄のコラム「アートエリア・21世紀」に取り上げて頂きました。

インタビューの時は全然上手く伝えられなかったのですが、とても丁寧に汲み取って頂けて、本当に感謝…!

-心眼越しの内的世界- どんなに慣れ親しんだ景色でも、あるいは初めて見る風景でも、どこか距離があって、心や身体になじまないような感覚に襲われることはないだろうか。この風景のなかにいる自分は何だろう、見えている景色は自分にとって何だろう、と。札幌の生まれ活躍する小林麻美は外界に対して、そんな揺らぐ距離感を持ち続ける。だからこそ、風景に何かしらつながれる要素がある時、それは「特別な」景観として小林の心体に波動を送り、「描きたい」衝動をもたせる対象となる。最前面とを覆う金網は小林の心眼のフィルターであり、その向こうに広がる景色が小林の内的世界だ。見るものは網の手前で、小林と同じ位置にある自分をより意識しながら、見る行為へと誘われる。小林の心体感覚が生んだ重層的な画面の構造は、「画家が見ていた世界を見る」という絵画の根本的な構造を直截的に見る者に示す仕掛けといえるだろう。そして揺れるように、しかし丹念に塗られたソフトフォーカスの画面は小林のたおやかな心根を表すものにほかならない。(くめあつし=道立近代美術館主任学芸員)